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青邨の句集を読む
by zassoen24
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玉蟲の羽のみどりは推古より

昭和17年作

先生の「自選自解」にあるように、作句の動機は、
 玉虫を見てつくづくその色の美しさに感嘆した。
そのことに尽きる。つまり感動の焦点は「みどり」で、そのことは上五が「玉蟲の」で、安直に「玉蟲や」とおかれていないことから伺うことができる。
 玉虫の緑金は推古時代から美しいものとされていたと断定
しているので、美しいのは「色」であって、けっして「玉蟲の羽」本体ではないことに注意したい。
日頃から顕微鏡を覗き、様々な鉱石の色の加減に敏感だった先生の中では、一旦記憶のプレパラートに定着された「色」は、本体が消滅した後でも、一つの標本として色褪せることはない。
 玉虫の厨子の玉虫の羽は…いまは剥落してほとんどそのあとをとどめていないと言われている。
という先生のコメントが、その辺りの事情を語っていると思う。
「推古」に当時の社会的時代背景を読み取ることもできるけれど、たとえば前年の
  興亡や千萬の蓮くれなゐに
を並べてみると、歴史というのは過去にはあったけれど、今は潰えてただひたすら偲ぶものというような感覚が、先生にはあったのではないだろうか。
季語「玉蟲」も「推古」も、ひとえに「みどり」(実はこれも、夏の美を代表する季語なのだけれど)を導き出す補助線のように働いていて、その正確な統辞法が、先生の、天然の色に対する純粋な感嘆を簡潔に表現して読者を惹きつけてやまない、そんな句ではないかと思う。
季語:作句の手がかりとしての「玉蟲」・夏
 潔記

# by zassoen24 | 2023-01-07 17:41

亂菊やわが學問のしづかなる

昭和17年作

昭和45年に刊行された『自選自解 山口青邨句集』(白鳳社)に自解文が載っている句である。そこには、「世が乱れ、戦争がはげしくなっても真理の探究者は水の如く静かであるべきだーーというような信念を吐露したつもりである」と記されている。

ここまではっきり書き残されていると、書き足すこともないのだが、句が詠まれた時代背景に思いを馳せながら、少し想像を膨らませてみたい。上記の自選自解句集は、終戦から25年後に刊行されたものなので、句が詠まれた当時の事情は、省略されているかもしれないからだ。

昭和17年当時、青邨先生のご自宅の庭には、たくさんの菊があって、秋ともなれば咲き乱れていたのだろう。咲き乱れていたから“亂菊”なのだろう。あるいは、伝統的な着物の模様で、花弁が長く不揃いな菊をかたどったものを“亂菊”というので、それを連想したければどうぞ、ということかもしれない。

当時の状況下では、“乱”という文字が、時局と結び付けられるのは危険なことだったはずだ。悪名高き治安維持法のもとに、新興俳句の関係者が次々と逮捕された「昭和俳句弾圧事件」は、まさにこの時期に起こっていたからである。この年に、日本文学報国会俳句部会の常任幹事に就任されたばかりの青邨先生といえども、軍部からの誤解を招くような俳句を発表するのは、危険なことだったに違いない。

そんな危険を冒してでも、「わが学問のしづかなる」と言わなければならなかったのは、「しづか」ならざる学問が、先生の周囲を覆いつつあったからではないかと想像する。当時、青邨先生は、東京帝国大学工学部鉱山学科の教授であり、先生が専攻なさっていた「選鉱学」も、国家や軍部が目的を達成するために、有用な学問と見なされていたであろうことは、容易に想像がつく。

句が、「しづかなる」と結ばれているのも、一見「しづかなるかな」と余韻を表現したように見せかけながら、実は「しづかなるべし」と自戒を込めて噛み締めていたからではないかと思われる。

自選自解句集には、「私の好きな句で、何かの時に短冊や色紙に書いたりしている」と記されている。平和な世になって短冊や色紙をもらった人々は、先生の戦時中の苦悩をどれだけ感じ取れていたのだろうか。

(ジョニー平塚 記)

季語 乱菊(秋)


# by zassoen24 | 2022-08-27 17:15

炎天の松の下にて待つ人等

昭和17年作

「文學報國會講演旅行の途次故郷に立寄りて(十二句)」の前書きがある。
 十一番目に「盆踊」を詠み込んだ句があるので、この講演旅行はその時期の東北一円を巡って行われたものらしい。
 句の情景は誠にシンプルで、一句全体を題して「炎昼嘱目」とでも言われればそれまで。けれど、一度読んでしまうと不思議に心に残るのは何故だろう、と思う。
 句の構成は「の」と「マツ」のリフレインによって、大きく二つに分けられて、それを真ん中の「松」がつなぐ形になっている。つまり形の上ではひとまず「松」が句の中心になっている。そこで少し脱線して、「炎天の松」ってどんなだろうと、近くの松林にでかけて、その一本の下に立ってみた。すると、開ききった松毬がそれぞれの枝の根元に固まっている、年を経た松、或いは幾つもの新松毬を育てながら、もうすっかり一人前になった松の芯をグンと空に向けて立てて、枝先揃って炎天に反らせた若い松、それぞれが地上にくっきりと影を重ね合わせて、いかにもナルホド「炎天の松」の佇まいで、なかなかに面白い。句の真ん中に「松」が置かれているその心持が何となく伝わってくる。仮に上五に「炎昼」を入れてみると、せっかく「松の下」とまで特定したその「松」が、やや漠とした風景の中に霞んでしまう感じ。ここはははり、より垂直感のある「炎天」は動きそうになく、加えて、上五を「や」で切らず「の」を繰り返すことで、「松」の輪郭がくっきり立ち上がってくる…。
 その「マツ」の下にて「マツ」人等。この部分で「松」は「待つ」に転じて、句の本当の焦点が「松」ではなく、それが「人」を導き出す序詞のように働きながら、実は「人等」にあることが見えてくる。つまり、句の主題は、「松」を経由して、「炎天下の人」なのだということが、ポンと腑に落ちてくる。そして、「等」からはその一人一人が立ち上がってくる。となると、そこには人々への先生の静かな挨拶が込められているように思えてくる。一人一人というところにそう思わせる何かがある。

 全体の感想はこんな感じだけれど、この年の6月にはミッドウェー、8月にはガダルカナル戦初頭、言語に絶する一木支隊の壊滅的敗北…。先生の句の力と、箝口令下の戦時下、銃後の景。このあたりから私たちは、手探りでこの重いテーマに分け入っていくことになりそうである。

(季語:炎天・夏)
(潔記)
 

# by zassoen24 | 2022-07-20 17:48

野菊濃しされど海より淡かりし

昭和17年作

薄紫の野菊の花が、日暮れとともに青々と色を深めていく。けれどもその色は、野菊の背景に見える群青色の海に比べれば、はるかに淡い。

野菊の青紫と、海の群青色という、ふたつの美しい青が、眼前に鮮やかに浮かぶ句である。

野菊とは、野生の菊の総称である。ヨメナやノコンギクなど、さまざまな種類があり、花の色も白から紫まで、濃淡さまざまである。この句では、「野菊濃し」と詠んでいるので、読者は黄色い中心部を囲む、濃い目の紫の花を思い浮かべる。

背景にあるのは青い海である。独立した句として読めば、真昼の海を想像することもできるが、句集では「相州金澤乙艪の濱伊藤公別荘に月を賞す(五句)」の一句目に掲げられており、次の句が「月を待つ」で始まるので、夕方の海を思い浮かべるべきだろう。日が落ちた直後の、まだ明るい空の下に広がる海は、この世のどんな青よりも深い色をしている。読者はその青を思い出すことになる。

前書きを読んでしまうと、この句が詠まれた舞台のことが知りたくなる。そこで、「相州金澤乙艪の濱伊藤公別荘」について調べてみると、それは横浜市金沢区の海に面した「野島公園」の中に現存していた。初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文公の別邸で、明治31年に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘であり、平成20年の解体工事を経て、創建時の姿に復元されている。

別荘が建っていた「乙艪の濱」は、歌川広重が描いた浮世絵「金沢八景」の1枚「乙艫帰帆(おっとものきはん)」で有名である。この近辺は、鎌倉時代から景勝地として知られ、江戸時代には江戸近郊の観光地としてにぎわった。明治に入って海浜別荘が流行すると、多くの政治家や文化人が、この辺りに別荘を建てた。

 その別荘で、青邨先生は観月会に参加し、月を待つ間にこの句を詠んだのだろう。17音字の中に書かれているのは、「濃し」と「淡かりし」だけなのに、読者の脳裏には鮮やかな2種類の青が、いつまでも消えることがない。青邨先生の色彩表現に、深く学びたいと思う。

季語 野菊(秋)

(ジョニー平塚 記)


# by zassoen24 | 2022-04-25 22:18

女だちおしやべり金魚浮き沈み

昭和17年作

 この句については大屋達治さんが、先生のユーモアに触れながら、<「おしゃべり」という俗語をうまく生かし><都会の一風景を、巧みに切り取った><とても戦中の句とは思えない>一句と評されていて、誠に言い得て妙と思う(「山口青邨論ーー書斎の自由人」)。その一方で氏は、先生が句評の中で「俳味」とか「俳諧味」という言葉を、おそらく一度もお使いにならなかった事にも注意しておられる。
 そこで、一読、読み手の心を、ふ~んナルホドと和ませてくれるこの句のユーモアはどこから来るのだろう?と改めて考えてみたくなる。すると冒頭「女だち」の濁点が、思いのほか効果的なのではないかと思えてくる。普通なら「女たち」で済むようだけれど、それだとどうもこの句の愉快さが出てこない。濁点があることで、「うふふ、君達またやってるな」と、先生の、声には出さないけれど彼女たちへの、心の中での親密な呼びかけのようなものが伝わってくる。そのことで冒頭から、女たちに対する先生の立ち位置が、いつの間にか句の中にスッと入り込んで、そこに先生と女たちとの、生活空間をともにしながらもおのずと生まれる距離感が確保される。常套と思える「女たち」をほぐす意味でこの濁点は、一種の俳言的役割を果たしながら、句の中に見事な「切れ」を作り出している。この「切れ」があってこそ、先生ならではの観察のフレーズ「浮き沈み」を含む下の句が生きてくる。とすると、句のユーモアは、俳言・切れ・季語がセットになって初めて立ち上がる、そんな風に読めてくる。
 こうして、上句の情景に取り合わされた鉢の金魚の浮き沈みが、何とも言えない夏の庶民空間を描き出す。句集ではこの句の後に
   玉蟲の羽のみどりは推古より
が置かれていて、先生の緻密な言語感覚にはつくづく脱帽。

 なお、この句の前には「南瓜五十個収穫の計画立て庭に苗を植う(四句)」の前書き付きで南瓜の句(その三句目には、これまた観察の行き届いた<霧雨のさやかの音に南瓜伸ぶ>がある)、玉蟲の句の後には<噴水を彼めぐりまた吾めぐる>が置かれて、これら七句をワンセットとしてみると、図らずもその配列の妙に驚かされた次第です。

季語*金魚(夏)
潔記


# by zassoen24 | 2022-03-20 19:22