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青邨の句集を読む
by zassoen24
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笠一つ荷が一つ木を流しくる

昭和17年作

この年の春先生は、京都を経て紀州へ足を伸ばされた様で、この句は「紀州瀞八丁(三句)」の前書きのある二句目。
前後二句はそれぞれ、
  緋つゝじを舟遠くしぬ瀞遊び
  山ざくら見て現なし波かぶり
ですが、三句目からも、筏流しの名所が相当の急流だったことがうかがえます。句を読む限り、先生を乗せた舟は上流を向いていて、杣人の流しくる筏とすれ違っている。そのわずかな間に「笠一つ荷が一つ」と季語を射止める句の眼目を捉えきってしまう手腕は(それも、波をかぶりながら!)、さすが即興の早業と感心してしまう。
 けれどその一方で、前年の秋に作られた
  うつくしき鶸も囮よ鳴いてゐる
  お六櫛つくる夜なべや月もよく
もそうであったように、旅先で出会った庶民の生業の詠む時の先生の句の「確かさ」を思い浮かべながら、この句を独立した一句として読むと、少し違った光景も見えてくるように思う。
 例えば、先生は大河の淵の大きな巌の上に立っている。上流から漢が笠をかぶって筏を流してくる。よく見ると、弁当だろうか、腰に小さな包みを括り付けている。「笠一つ」「荷」一つ、それぞれが先ず水墨画の焦点のように描かれる。そして、ぐっと一筆で画かれた句またがりの季語の斡旋が、景の勢いを一気に描きとめる。そこで一句は終わっているのだけれど、句全体の外側の生まれた余白に、筏を見送る先生の姿が見えてくる。
 瞬間芸を思わせるような現場を離れて句づくりの時間を少しだけ伸ばしてみると、一句の背後に大きな余白が広がって、僕などは、一句の最大の魅力は、図らずも広がったその余白にこそあると思ってしまうのです。この時余白は、風土と生業に対するおのずからの挨拶の余韻になって、句への信頼感もその余韻から生まれる。拓かれた余白に先生も遊ぶけれど、読者もまたそこで先生と肩を並べて、俳句という風景を一緒に愉しむ。こんな余白は、先生の、静かだけれどしっかりした生活姿勢の裏打ちが無いとなかなか生まれるものではない、と思ってしまう。
 一句の中に作者の「自分」を詠み込んで、「俳句」のもとにある俳諧の、懐の深い趣をたっぷり湛えた句だと思います。
「俳句は私」、成程なあ…です。

(季語)「木流し(木を流しくる)」 (春)
(潔記)
 

 


# by zassoen24 | 2021-06-17 16:25

雲の中南部富士あり田を植うる

昭和17年作

雲の中南部富士あり田を植うる

 曇り空の下、田植が真っ盛りである。遠くまで広がる水田の空には雲しか見えないが、その雲の中には南部富士(岩手山、標高2038m)がどっしりとそびえて、田植の様子を見守っているはずだ。田植の時期の、残雪の美しい姿で。

 「みちのくにて(八句)」の第三句に掲げられている句である。この八句は、「門川も裏川も田植濁りとて」という第一句から始まっているので、青邨先生は、どこかの家の門前の小川を渡って、田植の現場を訪れたのだろう。南部富士が存在感を持ってそびえる場所だから、盛岡市近辺だと思われる。

盛岡で暮らす人たちにとって、南部富士は心の山である。四季折々の営みの合間に、ふと目を上げると、いつもそこに南部富士がある。たとえ雲に隠れて見えなくても、その存在に見守られているという安心感がある。それは、田を植える人たちと、盛岡で生まれ育った青邨先生が、共有している感覚なのだ。

青邨先生の、旧制県立盛岡中学校の7年先輩にあたる石川啄木にも、4年後輩にあたる宮沢賢治にも、南部富士を題材にした作品は多い。啄木の「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」も、南部富士を詠んだものだといわれている。

大きなものに見守られていれば、人は遠くまで見通せる広い視野を持つことができる。南部富士は、盛岡に育まれた文学者たちにとって、そんな「ありがたき」存在なのである。

(ジョニー平塚 記)

季語 田植(仲夏)



# by zassoen24 | 2021-05-17 18:37 | 『露團々』

鯉ゆけば岸は明るく水温む

昭和17年作

 深大寺(三句)の前書きの後に、
  白鳳の佛ぞゐます梅散る日
  鯉ゆけば岸は明るく水温む
  山の鳥啼くをし見れば紅椿
とある連作の二句目。
池のほとりに立つと鯉の泳いでいくのが見える。ふと見る岸辺には春めく水明かりが揺らいで、なるほど「水温む」だなあ、といった感じ。どこにも無理が無くて、座五の季語の佇まいがスッと伝わってくる、写生句のお手本のような、何だかほっとする佳句です。

 ところで、これは偶然ですが、先日、三十年ちょっと前の金子兜太先生と詩人の田村隆一さんの対談(「ものと即興とことば」)を目にする機会があったのですが、即興についてのお二方の発言が面白かったので、大まかなところを抜き出してみます。

 田村:俳句のすばらしさは即興の粋ですけど、即興って、物にぶつかったときの不可避的な感動の表現。でも、一人称の私だけじゃない私がそこに参加していないと、即興は生まれないような気がするんです。一人称をこえた目で表現する世界があるから、それは物と心のぶつかり合いだと思う。
 金子:賛成だな。それが俳諧とか笑いの問題になってくる。
 田村:即興の凄みは、物とぶつかったときの表出のしかたですから、そこにユーモアのセンスがなかったら、どうしようもないと思うんです。
 金子:いま即興性というのは、俳句の世界ではややうとんじられている。

 このやり取りを読みながら掲句を見直してみると、この句の場合、季語は、吟行で出会った目の前の光景に共感する一人称の私だけじゃない私の役目も果たしていて、それでいて上五中七と続く流れの中から、感動の核は実は季語に出会ったことなのだと、改めて座五で言い留める、そんな作りになっていて、そこに読み手をほっとさせる<ユーモア>が秘められている感じがしてくる。平凡な結論だけれど、一句の生命はどうも、最後に季語と出会う即興の味わい、<「水温む」だなあ>の、静かだけれど愉しい、光景とのコレスポンダンスにあるように思う…。
 
 ところで、この句自体はことさら「深大寺」の前書きが無くても成り立つけれど、一句目の「白鳳」を心にとめれば、軽く古代に思いをはせる先生の句心にも触れられるのかもしれない。

季語:水温む(春)
(潔記)






 



# by zassoen24 | 2021-05-09 12:20

顕微鏡見し眼に冬の三ヶ月を

昭和16年作

 連作「大學の庭にて(八句)」の七句目。

 研究室でひとしきり、研究ノートを脇に置きながら顕微鏡を覗いた後、灯を落とした窓の外へふと目を遊ばせる、そんな感じだろうか。情景がよく伝わってくる一句である。切れは「を」の後にある筈だから、句はそこから一句全体に還っていく。〈季語+切れ字〉のとてもオーソドックスな形からすると、その還る先はたぶん上の句なのだけれど、「を」という切れ字をおかれてみると、作者=生活者たる先生ご自身の〈今、ここ〉もそこに含まれているように思えてくる。
 顕微鏡を覗く緻密な作業から、遠くの月(それも真冬の)に目を移した時の、凛とした解放感。たとえばシベリアへ砂金調査に出かけられた時、27歳の先生が書き残されたこんな文章を思い合わせるのも一興かもしれない。

 〈月が出た。…森巖といはうか、悪魔的静寂といはうか、たゞ身體に畏縮する様な気持ちである。…たった今仙人になつた許りの人の淋しさがこみ上げて來る。〉(「砂金を探しに」『花のある随筆』所収)

 ともあれ、研究室を出て家路につかれる先生が「冬三ヶ月」にどんな感懐を抱かれたかは書かれていないけれど、その部分はおそらく先生ご自身と読者の双方に委ねられている。〈俳句に虚構は許されない、発想は常に「私は」の詩である〉と言い続けておられた先生ならではの、「冬三ヶ月」に対する切れ字「を」の働きだろうと思う。何気ない日常のスケッチだけれど、俳句は「私は」の詩であるという先生の信念はこの一句においても揺るがない。

 蛇足ながら、この連作八句のまとまり具合、どこかしら芭蕉さんの「表八句を掛けおく」を連想させなくもない。

(潔記) 季語「冬三ヶ月」(冬)



# by zassoen24 | 2021-03-09 13:02 | 『露團々』

銀杏散るまつたゞ中に法科あり

昭和16年作

「大學の庭にて(八句)」の中の五句目。

先生ご自身、<法科というものを一つとってそれに焦点をしぼって、他に目移りしないようにした。「文科あり」でも「工科あり」でも面白くない>と自解されているように、なんといっても「法科」の一語が句を特徴づけている。そして、<それまで詩のコトバとして使われてこなかった俗語が、「新しい詩語」として機能する場合、その言葉を「俳言」という>と仮に定義するとすれば、「法科」はそうした「俳言」に相当するように思われます。そこで今回は、「法科」がどう機能しているかを考えようと思います。

昭和16年・秋といえば、日米開戦の直前ですが、それは今から振り返って初めて言えることです。当時の先生が、日米開戦を予期して日常を過ごされていたかと言えば、それは少し見当違いな気がします。(この年の10月7日、近衛内閣の海軍大臣だった及川古四郎海軍大将ーー先生の義兄に当たりますーーが、陸軍大臣・東条英機から「戦争の勝利の自信はどうか」と訊かれて、私見と断りながらも「それはない」と答えたエピソードからも、そんな感じがします。)

では、先生の立ち位置と「法科」はどんな関係にあったと考えるべきなのでしょう。
そこで問題になるのは、やはり先生のご専門だった鉱物学だったように思われます。先生の最初の就職先が足尾銅山であったように、当時、先生の学問は否応なく、大日本帝国の国策と深く関わっていました。国内はもとより、おそらく世界中の鉱山視察に赴いておられた先生は、この年の夏、朝鮮・満州を旅されていますが、この旅が視察旅行であったことは疑いないところです。この頃満州は、国家の生命線的役割を担っていたわけですが、そこでの鉱山開発は、戦争資源、生活資源の両面で喫緊の課題だったはずです。先生の学問は、この「開発」と深く関わらざるを得ない。とすれば、この地域が戦場になることは、国策や学問を全うしていく上で、何としても避けなくてはならない。その点からすると、先生の時局への関心は、朝鮮・満州の安定に向けられていたように思われます。

そこで「法科」なのですが、国際的な地域の「安定」は、外交官僚の仕事です。その中枢を担う人材を養成するのは「法科」です。遠からずご自身の仕事の現場となるであろうこの地域を、同じく国を統べていく立場にある研究者として、「諸君、あそこを戦場にしてくれるな、大丈夫ですね?」と、先生は、法科の建物を見ながら「法科」に問いかけておられるのではないか。「あり」が導き出す、建物の、一種厳然とした存在感は、句想がその辺にあったのではないかと思わせます。とすれば当然、「文科」でも「工科」でも句は成り立ちません。

そう思って読み返すと、連作中の
  落木は枝をたゞしてうつくしく
  こまごまと梢は深し冬の月
等の作品も、一般的な叙景を超えて、何処かしら切々とした詩情をたたえて,掲出句と響き合っているようです。

本郷キャンパスの象徴のような大銀杏。<「まつただ中」によっていかにも落葉のさかんなさまもわかるだろうと思う>との自解に、当時の先生の、毅然とした「社会性」が偲ばれるように思います。

東大の文化祭で「背中の銀杏が泣い」たのは、それから三十年後のことでした。(潔)

<季語> 銀杏散る(秋・晩秋)






# by zassoen24 | 2020-06-21 17:02